イカは釣れなかったけど、何かが出来上がった話。

釣りエッセイ
釣りエッセイ

釣れなかった。でも、考えた。

釣れないと悔しい。でも、なぜかその日ほど色々考える。

「なんで釣れなかったのか?」
「潮か?風か?エギか?シャクリか?ポイントか?」
答えのない問いを繰り返しながら、ついに「人間力が足りなかった説」にたどり着いたりする。

気づけばYouTubeで“釣れる人”の動きを凝視してるし、Googleで「春イカ デイゲーム シャロー 潮回り」とか、自分でも笑っちゃうぐらいマニアックな検索してる。
…なんだかんだで、前よりちょっと釣りに詳しくなってる自分がいる。

アタリが来ない時間も、実は嫌いじゃない

シャクって、沈めて、ライン見て、アタリを探りながら潮の流れを読む。
釣れない時間って、思ってた以上に“無”じゃない。

むしろ、自然の中で感覚が冴える時間だったりする。
波のリズム、風の音、鳥の声、背後で誰かが缶コーヒー開ける音(わかる人にはわかる)。

イカは来ないけど、「あ、今、俺生きてるな」って思える瞬間がある。
これって、釣れてないけど、何か得てるんじゃないか。

受け取り方ひとつで、世界は変わる

釣れなかったという事実は変わらない。
でも、それを「ダメな日」と受け取るか、「静かに整う日」と見るかは、自分次第だ。

最近好きな偉人、中村天風さんも言っていた。

「不安を置くか、信念を置くかで、人生はまったく変わる。」

なら、海の前に立つ自分にも、それが言えるんじゃないか。

「今日は釣れなかった」
→ それは信念を育てる日。自然と、そして自分と対話する日だったのかもしれない。

釣りは、釣れなくても何かをくれる(レイ・スコット)

アメリカのバス釣り界の伝説、レイ・スコットはこう言った。

「釣りとは、釣れなくても何かを与えてくれるスポーツだ。」

たしかに、釣れた日は嬉しい。
でも、釣れなかった日って、あとから思い出すとなんか味がある。

海の匂い、冷えた手、なんでもない空の色。
そういう“取りこぼしそうな瞬間”を、ちゃんと拾って帰れた日は、たぶんいい釣行。

釣れなかった日も、イカした一日…だったと思いたい

今日もアオリイカは釣れなかった。

いつものように立ち位置を変えて、エギのカラーをローテして、
干潮からの上げを狙って、シャクリの間も微調整して――
「今日は釣れるはずだ」と思った瞬間は、確かに何度もあった。

結果はボウズ。
でもその過程で、前より潮を読むようになったし、
ちょっとだけ釣り場での動きもスマートになった気がする。

釣れていれば最高の1日だったけど、
釣れなかった今も、なぜか「また行きたい」と思ってる自分がいる。

イカは釣れなかった。
クーラーは空っぽ。
でも、なんだかんだで“得るものゼロ”ってわけでもなかった。

そして、帰り道の静けさの中で、こんな言葉が自分の中で出来上がっていた。

「釣れなかった。だから何だ。」
― こぶへい(1978〜)

……ショボい名言だ。
でも今日は、なんかそれがちょうどよかった。

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